にししわ歴史の散歩道
にししわ歴史の散歩道
天平の古語る志芳庄(志和の庄)
○天平15年(743年)聖武天皇が墾田永年 私財法制定。神社、寺院荘園が増加し、朝 廷領は減少し、国分寺建立、東大寺建立、などで経済的に困窮となり、当地に朝廷勅旨 田の墾田を始める。
○志芳庄の条理地割一条から八条までの重要 地点一条(上条)古市を中心に、東西南北 他、三市を開き、繁栄を極める。
左画像は、二宮神社、縦馬場、横馬場
廃報恩寺釈迦堂
古代、志芳庄の中核古市にあり、境内の危険木伐採、観音開き格子戸、額看板を新調し、リニューアルデビューしました。
廃報恩寺釈迦堂、釈迦如来坐像
平安時代京都で制作された正統的な仏像で保存状態が良ければ、国宝級である。
淀川を下り、大阪湾、瀬戸内海、海田、荒山荘から榎山峠越え、当地に安置されたと思われる。
廃報恩寺釈迦堂、二天(天部鎧兜立像)
鑑真大和上が、天平勝宝5年(753)に来日し、唐招提寺に安置されてから各寺院に安置されるようになった。
一木造りで、製作年代は、平安時代より遡るかもしれない。
廃建德寺薬師堂
古代、奥屋パーキング、岡野迫、大谷山、門根木山山麓、春日山に南市が開き、古地図、住居跡一軒区切り図から見ると多くの人が居住していたことがわかる。
廃建德寺五輪塔
廃建德寺付梵字石塔
勢至菩薩と観世音菩薩が阿弥陀如来を支えている。
廃大行寺不動堂
当時、神仏混淆時代で、二宮神社付十二坊寺院の一つ。
大行寺原は、明治維新の折には、神機隊の鉄砲訓練場となった。
廃大行寺不動明王立像
空海が日本に持ち込んだといわれ、敵国退散の守護神」、「疫病退散の守護神」として扱われています。
長者の糘塚
伝説、長者屋敷の大男が長者山から春日山を股にかけ、箕を使い、籾摺り籾殻がこの岩山ほど積もったとか。
画像左に岸明神があり、四条、五条の生土神であった
廃阿弥陀寺阿弥陀堂
奥屋側(二条)東市にあり、安芸の国三景にも歌われた阿弥陀が峰の麓、二宮神社付寺院であった。当寺、二宮神社、岸明神の門前町に、先市、中市、下市の三斎市が開かれ、参拝者や、人の行き来でにぎわった。
廃阿弥陀寺付市の上観音堂
先市、中市などの上にあるので市の上観音といわれている。
二宮神社
奥屋湯免にあり、由緒は、大同2年(807)坂の上田村麻呂が平城天皇の勅を奉じ創建、多賀鷺の森厳島大明神という古社。このころ神仏混淆の神宮寺として、阿弥陀寺、西福寺など往古12坊の社寺を持ち、栄華を誇った。当時の様子を詠んだ歌に、「安芸の国、出会いの清水、鷺の森、阿弥陀が峰に、厳島山」とある。
黒河三郎左衛門碑
黒河三郎左衛門吉則は、享保8年(1724)志和東村長松(屋号河屋家)に生まれ、干ばつ飢餓に苦しむ村民のため、ため池築造や、用水路築造等、幾多の功労を立て、広島藩庁などから表彰を受けた。
特に、小野が原池築造にあたって、水路法線用地測量を生城山中腹から行い、おおよその水平水路線を決め、宮地まで杭打ち、提灯をつけ、生城山中腹から眺め、水路法線を決めた。水路は王子が谷を迂回し、二宮神社下西端まで続き、別府村の干ばつ飢餓を救った。
貞岡八幡神社
別府宮原にあり、由緒は別府荘八幡宮と称し、寛政元年(1789)ごろ再建という。この時代は、幕府が財政難で棄捐令をだし、債権放棄をさせた時代で、再建も大変であったろう。祭神には、他神社にはない水波女命(船の安全、水の安全を司る神)が祭られており、この地が水郷であったことを物語っている。
廃圓漫寺薬師堂
別府恵下にあり、この地を志芳庄別府荘という。城平山知蔵院圓漫寺、再建建立薬師如来、嘉永3年3月(1850)と棟木板にある。1444年中原安富卿記によると世尊寺行豊卿の求めで、安芸の国、圓漫寺修造の勧進帳を認めるとある。このことから推測すると朝廷との関係の深さを感じさせる。慶長5年(1600)広島城主福島正則は、山城破却令、廃寺令を行い、圓漫寺本堂等もあえなく寺は取り壊しとなりました。
西明寺
別府字西明にあり、本尊は阿弥陀如来。もとは真言宗で、七堂が坪中腹にあった。芸藩通志によると、廃寺禄になく芸藩通志地図には本堂はなく、秘仏十一面観音が残っていたが、明治8年に現在地に移転した。
湯坂峠口道標
園芸センター口から約150メートル西、半田にあり、右四日市、左甲山と記してある。江戸時代、寛永7年(1630)頃たてられたと思われる。
広島藩で年貢米は、慶応4年頃までは、ここ半田で検査され、狩留家に送られ検査、三篠川船着き場から広島城へと送られた。
廃法蔵寺地蔵堂
別府柳原にあり、法蔵寺は、神宮寺であった。生塩さま(屋号法蔵寺)廃寺後今日まで守ってこられました。地蔵菩薩は、右手に錫杖、左手に如意宝珠をもっています。ご利益は、邪気を払い、病気を治し、災いを防ぎ、あらゆる願いを叶えてくれる地蔵様です。
廃法蔵寺髄神立像
髄神立像は、冠衣束帯、帯剣弓矢所持姿で畑から掘り出されました。役目は、社殿の祭神を守る役として安置されていました。天平神護元年(765)、同様の役目として、隋身が置かれ、天皇や、朝廷を守っていました。
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