平成24年7月度活動報告

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【これは旧サイトから移行したデータです】

平成24年7月度活動報告

1)主なガイド活動

1-1) 7月1日(日曜日)北野さん、小出さんが「はやかわファンクラブ」の方8名を荏原北西部地域から目黒不動まで案内しました。

1-2)7月8日(日曜日)井上さん、細谷さんが、「ねり歩き研究会(練馬区のガイド養成講座のメンバー)の方11名を北品川宿コースで案内しました。

1-3)6月24日(日曜日)東海道品川宿周辺の企業、各種団体、品川区役所の防災関係者が集まり「地域の防災を考える会」を開催。「ガイドしながわ」からは渡邊さんが参加、出席者の方を東海道品川宿を案内しました。案内の後、この地域を災害からいかに守るかの活発な討論がなされました。

1-4)7月20日(金曜日)北野さん、小出さんが「ぶらり会」の方12名を朗惺寺から霊源寺までの荏原北西部地域で案内しました。詳細は、下記の写真をご参照ください。

2)勉強会

6月29日(金曜日)フジテレビ主催のフジテレビ本社「球体展望台」で実施されていた「タイムトリップビュー」の見学会を実施しました。品川歴史館の富川学芸員の案内で
12名の会員が参加、会場に設置されてタッチパネルとボタンで簡単に操作できる望遠鏡及びタブレットを使って、東京湾、品川宿、日本橋等の風景を現代、明治時代江戸時代に自由に切り替え現代と過去の景色を比較して新たな知識習得に努めました。この勉強会で得た知識を今後の観光案内に生かして行きたいと思います。(写真をご参照ください。)

3)観光案内所での案内
7月は、北品川観光案内所で延日数10日、延人数25名で訪問客の案内を実施しました。

上の写真は、「タイムトリップビュウー」を楽しむ会員。
「タイムトリップビュウ」は、パンフレットにもあるとおり、タッチパネルとボタンで簡単に操作が可能な望遠鏡、ソフトを内蔵しているタブレットを使い、日本橋、東京湾、品川宿等のポイントの風景を江戸時代、明治時代、現代に切り替えて比較して見ることができるものです。

朗惺寺でガイドする小出さん。朗惺寺は文禄2年(1593)創建の日蓮宗のお寺で明治42年(1909)に現在地に移転。境内には江戸時代中期に造られた石造庚申塔4基、貞亭2年(1685)に造られた古い梵鐘、[荏原郷満州開拓団殉難者慰霊碑](荏原郷より派遣された1000名ほどの満州開拓団が終戦時引き上げ途中匪賊の襲撃を受け800余名が死亡、死を弔うために13回忌にこの慰霊碑を建てたもの)等があります。

朝日地蔵堂でガイドする北野さん(左から二人目)。朝日地蔵堂は寛文7年(1667)に、戸越村の念仏講員16名により造立されたもので安産、厄除け、子育てにご利益があるといわれます。
玉川浄水を水源に持つ品川用水は、寛文9年(1669)に完成しましたが、江戸時代は農業用水として品川地区の農業発展に貢献。この朝日地蔵堂地点で百反通り、平塚橋方面と二つの流れに分岐されます。

朝日地蔵堂右側に寛政元年(1789)に造られた高さ1Mくらいの「寛政元年銘石造道標」
が立ち「右目黒不動・左碑文谷仁王尊道」と刻まれています。この道標の裏側には明治34年(1901)に建てられたものと推定される西小山の摩耶寺への道を示す「まや夫人尊道道標」があります。区内のいたるところに江戸時代に建てられた石造道標が残っています。

長応寺は文明11年(1479)に三河国西郡(現在の蒲郡市)に建立された法華宗の古刹ですが、場所を転々とし明治40年(1907)に現在地に移転してきました。昭和4年(1929)に建てられた山門は区内屈指の大きさと優雅さを誇っています。境内には、徳川家康の側室であった「西郡局(にしのこうりのつぼね)」、渡邊崋山の育てたといわれる「金子金稜(かねこきんりょう)」のお墓等があります。

浄土寺は文亀3年(1503)に赤坂に創建された浄土宗のお寺ですが、明治40年(1907)に、赤坂の第三連隊の敷地拡張のため墓地のみが当地に移転されました。写真は、徳川家の系列大給(おぎゅう)松平家のお墓。大給松平家は、4家の譜代大名、多くの旗本を輩出した18松平家の一つとして栄えた家系です。この墓地にはその他に「柳亭種彦(りゅうていたねひこ)」(江戸時代末期の戯作者)、「唐衣橘洲(からころもきっしゅう)」(江戸時代中期の狂歌師)、「達磨屋伍一[(だるまやごいち)」(幕末の狂歌師)のお墓があります。